芥川龙之介《罗生门》(一)[转载]_天天微头条

2023-07-03 19:27:39  来源:哔哩哔哩

國立臺灣大學

開放式課程 


【资料图】

《日本近代文學細讀》

第三講  芥川龍之介的初期作品

─羅生門 (一)

授課教師:京都大學 文學部 川合康三 教授

网址:/ntu-ocw/ocw/cou/101S105/3

作者:川合康三

1948年生,日本静冈县浜松市人。京都大学文学博士,原京都大学文学部中国文学系主任教授,现为京都大学名誉教授。曾任日本中国学会理事长。

正文:

まず初めに、この題名を何と読むか。ふつう日本では「らしょうもん」と読まれている。問題は「生」の字で、漢音では「セイ」、呉音では「ショウ(シヤウ)」である。あとで出てくる「城」も漢音は「セイ」、呉音が「ジョウ(ジヤウ)」。漢字の音は中国語では意味の違いで二つ以上の音をもつ場合はあっても、基本的に一つの音ですむが、日本語の音読みでは呉音、漢音、そして唐音があって、はなはだややこしい。漢音というのは、隋唐の時期、遣唐使などで中国と往来していた時に中国に渡った人が持ち帰った音、長安、洛陽一帯の音を日本語で単純化してあらわしたもの。それが基準の音となった。しかしそれ以前にも中国の音は日本に入ってきていて日本的な音に変わっていた、それが呉音。呉というようにこれは南朝時代、南京一帯の南方の音が入って来たものである。着物のことを呉服というように「呉」は時に中国を指すことばとなる。仏教は奈良時代より前から入って来たので仏教に関する漢字は今に至るまで呉音で読まれる。たとえば儒家の経書は「ケイショ」であるが、仏教の「お経」は「オキョウ(オキャウ)」と読み分けられる。唐音というのは漢音よりもさらに遅く、宋代以後の中国の音でこれは特殊なわずかな語彙に限られる。呉音、漢音は本来は中国南方の音、中国中原の音という地域の差であるが、日本では流入の時代の差になっている。『枕草子』に「文は『文選』、文集」とあり、従来はモンゼン・モンジュウと読まれて昭明文選と白居易の文集を指したが、最近、文集はブンシュウと読まれていたであろうという説が提起されている。『文選』は時期が早いので呉音のモンゼンが定着していたが、文集が入って来たのは漢音の時代であり、ブンシュウが正しいであろう、そこにモンジュウと仮名がつけられるのは文献の上では明治以後のことであるという。ただ、呉音、漢音が基本的に時代の違いを反映しているにしても、慣用によって読み分けられるということも多く、必ずしも合理的説明ですべてが解決するわけではない。「生」に戻れば、「一生」「生涯」―「生活」「生命」などの区別は慣用化による読み分けであろう。「羅生門」も理屈からいえば「ラセイモン」であろうが、「ラショウモン」とふつう読まれている。

「羅生門」は芥川の最も早い時期の作品の一つで、一九一五年(大正四年)、二十三歳の時に『帝国文学』という雑誌に発表された。当時、彼は東京帝国大学文科大学英文科に在学中であった。『帝国文学』は東京帝国大学の教師、学生の評論、創作を載せる雑誌。前の年に芥川は同人誌『新思潮』に処女作「老年」を発表している。処女作が「老年」というのは皮肉だった。彼の短い生涯の予兆であるかのようだ。これが『帝国文学』という、『新思潮』より権威があったであろう雑誌に登載されたことは、自信もあったか。翌年には『新思潮』に「鼻」を発表し、さらに翌年の一九一七年(大正六年)には『羅生門』の名で「鼻」「芋粥」などと合わせて短編小説集として刊行している。

中国の都市はまわりが城壁で囲まれていた。それゆえに都市のことを「城市」という。城壁にはいくつかの門が設けられ、夜は閉鎖された。こうして町を防禦したのだろう。ヨーロッパの町も基本的に城壁で囲まれていた。日本では中世に土塁で町を囲むことがあたようだが、ヨーロッパや中国ほど大きな城壁はなかった。有名なのは豊臣秀吉が京都に設けた「御土居(おどい)」というもので、現在はわずかに一部だけのこる。平安朝の京都の町に城壁はなかったと思われる。「羅城門」という門はあっても「羅城」があったわけではない。

城をとりまく門の意味で羅城門というのであるから、羅生門では意味が通じないが、。すでに昔の文献のなかに「羅城門」を同音の「羅生門」と表記したものがある。「羅生門」の方を用いた理由はなにか。よく言われるのは、人間の生をテーマとするゆえに生に言い換えた、そこに作者の意図が込められているというもの。果たしてそうであるかどうか、わからない。

「羅生門」といえば、黒沢明の映画、「羅生門」が世界的によく知られている。ただ、この小説とはほとんど関係がなく、同じ芥川龍之介の「藪の中」(中国語訳は「竹藪中」)を中心に作られたもので、1950年ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞、黒沢明が世界に知られるきっかけとなった。黒沢がなぜ題名をすり替えたのか、これもわからないが、「藪の中」とするより何やら意味深そうな感じはある。

この小説は『今昔物語』のなかの話に題材を取っている。いわば「故事新編」というべきものである。このことはどのような意味をもつのか、元の話をどのように使っているか、またどのように違うか、それは読み終わってから比べてみることにしよう。

ある日の暮方の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門(らしょうもん)の下で雨やみを待っていた。

小説の書き出しは、ことに短編小説の場合、とりわけ重みをもつ。和歌、俳句を暗誦するように、小説の冒頭部分も人々は暗誦することがある。これもみごとな書き出しである。

二つの短い文(sentence)のなかに、必要なことがすべて収められている。物語の始まりに必要な要素は、いつ、誰が、どこで――つまり時、人、場所である。その最小限の条件がここにはそろっている。日本語でよい文章とされるのは、簡潔であること。簡潔という意味は、必要な要素を書き記しながら、余分な要素がないこと。これが近代日本の「名文」の条件である。明治の小説にははなはだ饒舌なものが多い。今はあまり読まれない小説はおおむね冗漫な文章で書かれている。今でも評価高く、よく読まれている小説のなかにも、たとえば夏目漱石の『吾輩は猫である』などは、逆に冗長な文章、饒舌な文体をわざと駆使しておしゃべりを楽しむといったものもあるが、近代文学の流れとしては冗長な文体から簡潔な文体へという変化が認められる。漱石も後年の小説はしだいに簡潔な文体に変わっていく。当時、簡潔な文体で知られるのは森鴎外であった。彼の文章には無駄な形容詞がない。さらに大正、昭和では志賀直哉の文体が簡潔で知られ、彼の文体が一つの規範になった。この芥川の小説も簡潔で明晰、新しい文体のありかたを示している。

小説にとっては簡潔であることのうえに加えて、さらに大切なことがある。それは単に意味、内容を伝達するのでなく、その言葉が一つの雰囲気を作り出して、読者を一気に小説の世界に導くことである。我々は時が「ある日の夕方」であることを知り、登場人物が「下人」であることをしり、場所が「羅生門の下」であることを知り、彼が雨の止むのを待っていることを知る。が、それだけではない。そこに独特の一つの世界を作り出している。それを見ていこう。

時については「ある日」というだけで、時代も具体的な日にちを記されない。そのことによって、これが歴史記述とは異なる、物語の言説であることがわかる。時代すら示されていないのだが、以下の「下人」などの語からわかるように、平安朝の時代であろうと漠然とした見当はつく。それで十分であって、それ以上は必要ない。歴史事実を書く場合、実際にあった出来事を書くには、実際の或る時点を明示しなければならない。物語はそれを書かないことによって、事実とは異なる、もう一つの世界を浮かび上がらせる。物語の最も単純な形式である「昔話」の場合、「むかしむかし、あるところに一人のおばあさんがいました」といった書き方(語り方)がふつうである。そこでは時間も場所も曖昧なまま放置される。この小説が昔話と連続する性格のものであることが、この書き出しからわかる。

「暮方」は夕方の時間であるが、夕方をあらわすにはいろいろな言葉がある。日暮れ、夕暮れ、たそがれ、……。そのなかで「日暮れ」「夕暮れ」は日が暮れる、さきほどまで明るかったのがしだいに暗くなっていく、その前には太陽があったことを思わせるが、ここはあとでわかるように雨が降り続いているので、太陽を連想させる「日暮れ」はふさわしくない。「たそがれ」は夕暮れを美しくいったことばだ。これは美しい夕暮れの時間ではないので、それもふさわしくない。「夕方」ということばが「暮方」に一番近いだろうが、「夕方」というと生活感が伴う。また小説の冒頭としてあまりに日常的なことばでもある。そう考えると、「暮方」というのが一番ふさわしいかに思われてくる。

暮れ方の時間とは昼間の時間が終わり、夜の時間が始まる時。昼と夜の交わる時点。夕暮れ時は、物語的世界ではしばしば魔物に出会う時刻とされる。「おおまがとき(逢う魔が時)」という言葉もある。それは薄暗いために不気味な、怪しい物に遭遇しやすいということもあるが、それ以上に重要なのは昼と夜の境界であることだ。魔物は時間的な境界、空間的にも橋など境界によく出現する。過去においては夕暮れはそういう恐ろしい時間であったが、それが薄れた時代になっても、夕暮れは特別な時間と意識される。たとえば歌のなかでも今でも夕暮れが多い。真っ昼間はあまり歌われることはない。歌で夕暮れが多いのはそれがロマンチックな情感を伴うからだろう。怪奇性、恐ろしさは消えても、昼と夜の境界の特別な時間、昼間には起こりにくいことが起こる時間であることはのこる。ここでも何か起こりそうな気配はあるにしても、直接に魔物の到来を予告するものではない。近代的な「夕暮れ」に近づいている。

「下人」は身分の低い、下働きの者。厳密には平安時代以後、荘園、地頭に隷属した、売買の対象となる一種の奴隷的存在を指す。ここではそこまで限定する必要はない。単に下働きで暮らしている、身分の低い男でよいだろう。

「下人」というだけで、名前はない。この小説には一人も名前をもった人物が登場しない。これも「昔話」の話法と同じだ。昔話には「おじいさん」「おばあさん」が登場するが名前をもった人間は登場しない。名前がないということは、「下人」という階層の人々に共通する性格だけ備えて、それ以上の個性がない、個性を必要としないからだ。ここが近代文学と異なるところだが、この小説はあえて近代文学と異なる書き方を用いながら、別の仕方で近代文学になっている。それについては後述。

「雨やみを待っていた」あたりは夕暮れに加えて、雨が降りしきっていたことがわかる。いっそう暗い雰囲気が漂う。この出だしの部分はまるで映画の冒頭場面のようだ。視覚的に鮮やかな映像を作者は短い言葉でカメラをまわすように描き出す。

雨はこの小説のなかで大きな役割をもっている。あとにも雨の描写が出てくるが、雨によってまわりの世界は遮断され、羅生門のなかだけに限定される。

広い門の下には、この男の外(ほか)に誰もいない。ただ、所丹塗(にぬり)の剥(は)げた、大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路(すざくおおじ)にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子(もみえぼし)が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。

この段は羅生門の下に下人一人しかいないことをいう。赤く塗った柱が所々剥げている―都の荒廃ぶりを示す。都の荒廃はこのあとにも記述される。

きりぎりすは秋の虫の一種。現代語ではキリギリスという名の虫であるが、古くはコオロギを意味する。コオロギにしてもキリギリスにしても秋の虫の何より大きな属性は「鳴く」ことだ。キリギリス(コオロギ)はその鳴き声によって秋の情感を人に与える。蟋蟀は中国では早く『詩経』豳風・七月に「十月蟋蟀入我床下」    と登場する。しかしその後、中国よりも日本で秋の虫は秋の季節と結びついて欠くべからざるものとなる。ところがここでの蟋蟀は鳴いていない。なぜ鳴かないのか。鳴いている蟋蟀ならば、秋の季節のしみじみとした情感がかもしだされるが、鳴かないことによってこの蟋蟀は属性を失っている。もはや鳴く力もなく、へばりついているだけの虫。生命力を失った虫。それも一匹だけ。この情景がこの物語の荒涼、寂寞とした感じを添える。

朱雀大路にある以上は

……からには、既然……就…… 朱雀大路という都の最も大きな通り、したがって最もにぎやかであるはずの通り。

市女笠や揉烏帽子

市女とは物売りの女。市女笠は女のかぶるもの。烏帽子は男の帽子。ここでは帽子という一部でその人をあらわす。提喩というレトリック。

もう二三人はありそうなものである

「ほかにも二三人いてもいいと思われる。」作者が顔を見せる。作者の判断、推量をいう。この言い方にこの小説における作者の複雑な役割が示される。小説のなかのすべては作者が作っているはずである。下人一人しかここにいないということも作者がそのように設定したことだ。そうであるのに、ここではいかにも下人一人しかいない、ほかに誰もいないことが意外なことであるかのように作者は疑問を呈している。これはどんな働きをしているのだろうか。作者はすべてを知っているという特権的な立場を捨てて、読者と同じ立場に立とうとする。このようなにぎやかであるべき場所に一人の男以外、誰もいない。それを意外に思う読者の立場に立つ。あるいは作者がそういうことによって読者に意外に思わせる。そしてなぜそうなのかという興味を読者に呼び起こす。読者に次の事態への転換を期待させる。

何故かというと、この二三年、京都には、地震とか辻風(つじかぜ)とか火事とか饑饉とかいう災(わざわい)がつづいて起った。そこで洛中(らくちゅう)のさびれ方は一通りではない。

読者になぜだろうかと疑問を起こさせたうえで、その理由を説明する。

地震、火事という災害。これは恐ろしいものの代表。地震、雷、火事、親父の俗語もある。飢饉も災害。すべて人の生命に危険を及ぼす。一つ加わっているのが「辻風」。これは旋風、つむじ風のことで不吉なもの、災害の一つに数えられたようだ。

「とか」を連ねて、多くのものを列挙する。これでもかこれでもか、いくらでもあるという次々と様々な災害が起こったことを強調する。

語釈: 「一通りでない」――程度が普通でない。

都がさびれる。荒廃した都が舞台。それゆえに以下の出来事が起こる。

旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に売っていたという事である。

「旧記によると(昔の人の書き残した記録によると)」――ここにも作者が登場。昔話とは違って、近代文学らしい手法といえる。鴨長明「方丈記」による。鎌倉時代の災害のあとの京都を書く。

「薪の料」、たきぎの代わり、「しろ」は「代」と表記するのがふつう。「身代金」からだの代わりとして払う金。「飲み代」、酒の代わりとして払う金。

仏像や仏具(仏前に供える器物)は宗教心あるものにとっては、大切なものであるし、また恐れ多い、尊い物を傷つける、してはならないことであるはずである。神とか仏に対しては傷つけたり汚したりしてはいけないという風習が日本にはまだのこっている。そうしたことをするとバチがあたる、と日本人は考える。

そうした風習のなかで仏像や仏具をたきぎの代わりに燃やすことを捉えると、それほどまでに生活に困っている、たきぎすら欠乏しているということがわかる。

洛中がその始末であるから、羅生門の修理(しゅり)などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸(こり)が棲(す)む。盗人(ぬすびと)が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くという習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。

語釈:「その始末であるから」始めから終わりまでということから物事のいきさつ、なりゆき。

「よいことに」都合がいいこととして。

「日の目を見る」ふつうは埋もれていたものが世間に知られるようになることをいう。

「足ぶみをしない」足を踏み入れない。

都の荒廃が羅生門という都のシンボルをも荒廃させ、人が寄りつかない恐ろしい場所にしてしまった。死人が登場することで、この物語にとって必要な要素がここにあらわれる。

その代りまた鴉(からす)が何処(どこ)からか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾(しび)のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻(ごま)をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄(ついば)みに来るのである。

語釈:「その代わりに」人が足を踏み入れない代わりに。

「鴟尾」屋根の最も高いところに水平に置いた棟、その両端の飾り。鴟はトンビ。

人の不在証明のようにカラスが登場する。人がいない所にあらわれるというのも気味が悪いが、カラスは屍体をついばむと考えられた。どこでもカラスは不吉な鳥とされる。

ただ自然描写としては実際と異なるところがある。「輪を描いて」とあるが、カラスはトンビ、ワシといった猛禽類と違って、空中で輪を描くように飛ぶことはない。また夕暮れに集まってくるのは巣に帰るからである。カラスは数百羽の群れが一つの場所に営巣し、昼間はあちこちに飛んでいったのが夕方に集合するという習性がある。もし屍体をついばみにくるのなら昼間にするだろう。

しかしそうした事実との乖離は大きな問題でない。それよりこの段で印象にのこるのは、夕焼けの空にごまをまいたようにはっきり見えるカラスの映像である。事態は気味悪いにもかかわらず、赤い背景に黒い点々という描写は視覚的に鮮やかそのものである。

――もっとも今日は、刻限(こくげん)が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞(くそ)が、点と白くこびりついているのが見える。

夕焼けのカラスを美しく描いておきながら、今日は見えないと転じる。時刻が遅くてすでに巣に帰ってしまっただけではない。ずっと雨が降り続いてそんな日にカラスは空を飛びはしない。

空を飛ぶカラスの代わりに目に入るのはカラスの糞である。これも闇の迫る時に白い点が視覚的に鮮やかな映像を見せる。

総じてすぐれて視覚的映像を主体として、作者は「見る」人となって読み手に状況を伝えている。

もう一つ気づくことは、描写が次々と付け加えられて展開するのでなく、或る一つのことを提起するとそれが不在であると否定し、言っては打ち消し、言っては打ち消すというかたちで続くことだ。「もう二三人はありそうなものである。」といってから「それが、この男のほかには誰もいない。」「その代りまた鴉(からす)がどこからか、たくさん集って来た。」と言いながら、「一羽も見えない。」代わりにあるのは「鴉の糞」というかたちが繰り返される。この手法は作者が読者に対して高圧的な立場から叙述を繰り広げるのでなく、読者と同じように予想したり予想が覆ったりしながら展開するという態度を示す。

有道翻译:

首先,这个题目该怎么读?一般在日本被读作“罗生门”。问题是“生”字,汉音是“成”,吴音是“昭”。后来出现的“城”的汉语发音也是“成”,吴音是“城”。汉字的音读在汉语中由于意思的不同,有时会有两个以上的音,但基本上都是一个音,而日语的音读有吴音、汉音和唐音,相当复杂。所谓“汉音”,是指隋唐时期,遣唐使等与中国往来时到中国的人带回的音,是将长安、洛阳一带的音用日语简化后的表现。那是基准的声音。但在此之前,中国的声音传入日本,变成了日本式的声音,那就是吴音。“吴”是南朝时代南京一带的南方音传入的。就像和服被称为吴服一样,“吴”有时也指中国。佛教在奈良时代之前传入日本,所以与佛教相关的汉字至今仍用吴音来读。例如儒家的经书是“经书”,而佛教的“佛经”是“御教”。唐音比汉音更晚,是宋代以后的中国音,仅限于少数特殊词汇。吴音、汉音本来是中国南方的音、中国中原的音,是地域上的差异,在日本则是传入时代的差异。《枕草子》中有“文为《文选》、文集”的记载,以前读作“montzen - montung”,指的是昭明文选和白居易的文集,但最近有人提出文集可能被读作“文集”。《文选》由于时期较早,吴音的文辞已经固定下来,文集传入是在汉音时代,文辞应该是正确的,在文献上用文辞和假名命名是明治以后的事了。但是,即使吴音、汉音基本上反映了时代的差异,也有很多根据惯用来区分的情况,合理的说明未必能解决所有问题。回到“生”,“一生”“生涯”—“生活”“生命”等的区别是根据惯用化来区分的吧。《罗生门》按道理应该是“罗生门”,但一般人读作“罗生门”。

《罗生门》是芥川最早的作品之一,发表在1915年(大正四年)23岁的《帝国文学》杂志上。当时,他正在东京帝国大学文科大学英文科就读。《帝国文学》是刊登东京帝国大学教师、学生评论、创作的杂志。前一年芥川在同人志《新思潮》上发表了处女作《老年》。处女作是《老年》真是讽刺。这似乎是他短暂一生的预兆。《帝国文学》刊登在比《新思潮》更有权威的杂志上,他有自信吗?第二年,他在《新思潮》上发表了《鼻子》,又在第二年的1917年(大正六年),以《罗生门》之名,与《鼻子》、《芋粥》等短篇小说集合刊。

书名《罗生门》是贯穿京都南北的朱雀大路南端的罗城门。北端是朱雀门。那是以前京都实际存在的地名。京都以长安和洛阳为原型,像棋盘一样纵横交错。知道长安、洛阳的城门名称,却没有罗城门之名。并不是直接使用了中国的门名,而是因为罗城(外面的城郭)的门的意思,所以命名为罗城门。

中国的城市四周都有城墙。因此,都市被称为“城市”。城墙上设置了几个门,晚上关闭。是这样防御城市的吧。欧洲的城镇基本上也被城墙包围。在日本,中世纪好像有用土垒包围城镇,但没有欧洲和中国那么大的城墙。比较有名的是丰臣秀吉在京都设立的“御土居”,现在只剩下一小部分。平安时代的京都没有城墙。当时虽然有“罗城门”,但并没有“罗城”。

罗城门的意思是包围城的门,罗生门的意思就不通了。早在古代文献中就把“罗城门”写成同音的“罗生门”。使用《罗生门》的理由是什么?人们常说,因为是以人的生活为主题,所以把它换成生活,其中包含着作者的意图。到底是不是这样,我不知道。

说起《罗生门》,全世界都知道黑泽明的电影《罗生门》。不过,和这部小说几乎没有关系,同样是以芥川龙之介的《竹林中》(中文译为《竹竹林中》)为中心创作的,1950年获得威尼斯国际电影节大奖,成为黑泽明闻名世界的契机。虽然不知道黑泽为什么要调换片名,但总觉得比《竹林中》意味深长。

这部小说取材于《今昔物语》中的故事。可以说是“故事新编”。这件事有什么意义,怎么使用原来的话,又有什么不同,读完以后再比较吧。

一天傍晚。一个下人在罗生门下等待雨停。

小说的开头,尤其是短篇小说,尤为重要。就像背诵和歌、俳句一样,人们有时也会背诵小说的开头部分。这也是一个漂亮的开头。

在两个短句(sentence)中,包含了所有必要的内容。故事开始的必要要素是何时、谁、何地——即时间、人、地点。这个最低限度的条件在这里都具备了。在日语中被认为是好的文章,简洁。所谓简洁,就是在记录必要要素的同时,没有多余的要素。这就是近代日本“名文”的条件。明治时代的小说中有很多饶舌的东西。现在不怎么读的小说大都是用冗长的文章写成的。即使是现在评价很高、经常被阅读的小说,例如夏目漱石的《我是猫》等,也有故意使用冗长的文章、饶舌的文体来享受聊天的东西,但作为近代文学的潮流来说,这是冗余的从简洁的文体向简洁的文体的变化被认可。漱石后来的小说也逐渐转向简洁的文体。当时,以简洁的文体而闻名的是森鸥外。他的文章里没有多余的形容词。到了大正、昭和时期,志贺直哉的文体以简洁著称,成为一种规范。芥川的这部小说也表现出简洁、明晰、新颖的文体风格。

对于小说来说,除了简洁之外,还有更重要的一点。那不是单纯地传达意义、内容,而是用语言创造出一种氛围,一下子把读者引向小说的世界。我们知道时间是“某天傍晚”,知道登场人物是“下人”,知道地点是“罗生门下”,知道他在等雨停。但不仅如此。在那里创造出了独特的一个世界。我们来看一下。

关于时间只说“某一天”,时代也没有具体的日期。由此可知,这是一种不同于历史记述的叙事话语。虽然连时代都没有显示,但从以下的“将佣”等词语可以大致推测出是平安时代。这样就足够了,不需要更多。在写历史事实时,如果要写真实发生的事情,就必须标明真实的某个时间点。故事因不写而浮现出与事实不同的另一个世界。故事最单纯形式的“传说故事”,一般是“很久很久以前,某个地方有一位老奶奶”这样的写法(讲述方式)。在那里,时间和地点都被放置得模棱两可。从这篇小说的开头可以看出,这篇小说具有与过去故事相连的性质。

“暮方”指的是傍晚的时间,有各种各样的词语来表示傍晚。日落、黄昏、黄昏……。其中“日暮”“日暮”是指太阳下山,刚才还是明亮的,现在逐渐变暗,让人联想到之前有太阳,但这里是后面会知道的,一直下雨,让人联想到太阳。日暮”不合适。“黄昏”是把黄昏说得很美的词语。这不是美丽的黄昏时间,所以也不合适。“傍晚”这个词与“暮色”最接近,但“傍晚”总是伴随着生活感。作为小说的开头,这句话过于日常。这样想来,“生活方式”是最合适不过的了。

暮方的时间是指白天的时间结束,夜晚的时间开始的时候。白天和夜晚交汇的时间点。黄昏时分,在物语世界中常常被认为是与魔物相遇的时刻。有句话叫“逢魔时”。因为光线昏暗,很容易遇到诡异的东西,但更重要的是这里是昼夜的分界。魔物经常出现在时间上的境界、空间上的桥等境界。在过去,黄昏是一个很可怕的时间,即使到了这个时间淡薄的时代,人们也会意识到黄昏是一个特别的时间。比如歌里现在也有很多黄昏。大白天很少有人唱歌。歌曲多在黄昏是因为它伴随着浪漫的情感吧。即使怪异和恐怖消失了,白天和夜晚的界限的特别时间,在白天很难发生的事情发生的时间,还是会残留下来。这里虽然也有什么要发生的迹象,但并不是直接预示着魔物的到来。接近现代化的“黄昏”。

“家将”是指身份低微、打下手的人。严格来说是指平安时代以后,隶属于庄园、地头,成为买卖对象的一种奴隶性的存在。这里没必要限定那么多。只要是个靠打下手、身份低微的男人就可以了。

只叫“下人”,没有名字。这部小说里没有一个有名字的人物。这也和“过去的故事”一样。古代故事中有“老爷爷”、“老奶奶”,但没有名字的人。没有名字,是因为“家将”这个阶层的人们只具备共同的性格,没有其他的个性,也不需要个性。这是与近代文学不同的地方,这部小说采用了与近代文学不同的写法,却以另一种方式成为近代文学。关于那个后述。

“一直在等雨停”这一段是黄昏,再加上下起了雨。气氛更加阴沉。这个开头就像电影的开头。作者用简短的语言像转动照相机一样描绘出视觉上鲜明的影像。

雨在这部小说中起着很大的作用。后面虽然也有关于雨的描写,但雨将周围的世界隔绝,只局限在罗生门身上。

宽阔的门下,除了这个男人之外没有其他人。只在斑驳的大圆柱上,蹲着一只蟋蟀。既然罗生门位于朱雀大路,那么除了这个男人之外,应该还有两三个人戴着防雨的女笠和揉乌帽子。除了这个男人,别无他人。

这段是说罗生门手下只有下人。涂成红色的柱子到处剥落,显示了京城的荒废。京城的荒废在这之后也有记载。

蟋蟀是秋虫的一种。现代语名为蝈蝈的虫子,在古代是蟋蟀的意思。无论是蟋蟀还是蝈蝈,秋虫最大的属性就是“叫”。蟋蟀通过它的叫声,给人以秋天的情感。雕饰,《诗经》在中国早豳风·七月“十月蟋蟀入我床下”登场。但是后来,比起中国,日本更重视秋虫。